構造、実存

昔のノートの切れ端なら沢山あります。埃をかぶってしまうので、webの上に置いておきましょうか。読書ノートはつけておくべきです。以前の日記はデーターを消去してしまいました。

読書ノート
中村雄二郎(1977)「新しい人間像」福井芳男他編『フランス文学講座 第五巻 思想』、1977年、大修館書店

 フランスの伝統的な思想をデカルト的なコギト意識とモンテスキューなどの経験主義の二つの極にわけ、それらの交錯と統合という観点から1970年代のフランス思想を「実存」と「構造」という観点から論じている。その際、(1)連続的な「歴史」に対しては「構造」を、(2)具体的な「人間」に対しては、ポジティブな「言語」を、(3)自由の「意識」に「無意識」の支配を代置したのは、比較心理学中心化、反全体化の性格のためであったという三つの論旨が述べられる。

 この後、構造主義の先行理論として、1)ソシュール派言語理論、2)フロイト学説、3)バシュラールの「知の批判」の三つを挙げ、反コギト的立場に立つ構造主義的方法が人間科学の方法としてもっとも明確な成果を示したのは、人間における集団的な無意識を扱う人類学(民俗学)と神話学においてであったとする(p528)。その後、レヴィ=ストロースソシュール言語学的な方法から着想を得て人類学的著書をいかに記したかを述べる。それと共振的な関係を持っていたのは、フーコーにおける「理性」と「狂気」の叙述からの「人間」批判であった。フーコーは『狂気の歴史』をたどりつつ、狂気がはじめから或る輪郭を持った実体的なものではなく、関係のうちに区切られるものであることを示すとともに、狂気そのものが独自の構造を持った一つの知であることを明らかにした(p542)。しかし深層的人間の究明の最も正面切った企ては、フロイト学説の新しい読解と徹底化を通して、ラカンによってなされる。彼はソシュール的なシニフィアンシニフィエによって無意識のとらえなおし、あるいは人間は無意識の秩序の支配者ではなく、人間(自我)を構成するのは不在の事物のシンボルであるシニフィアン(無意識)であるとした(p542)。中村はラカンが、自我(主体)の形成も、イメージをとおしての自己の固有の進退の統一的把握によってもたらされるとしている。

 両対戦前後のフランス現代思想がコンパクトにまとまった解説書として読みやすく、わかりやすい。またレヴィ=ストロースソシュールの言語論をいかに咀嚼し、独自の理論を構想したか、というくだりは勉強になる。もう一度しっかり読み直してみたい。しかし、読みやすいということの意味を考えると、それはいくつかに分極されたものを整理した図式がしっかり書かれているということであり、交錯と綜合という観点からすると、やや枝葉がきりとられすぎ、すっきりしすぎている感じもする。