『ウェブ社会をどう生きるか』

 さて、日常生活の諸々の困難を解消すべく、今日もお腹の痛みを気にしつつ出来ることをやっていました(まだヘヴィーなことはできません)。ところで最近「私はウェブ社会とどうつき合っていくのか」ということを説明しなければならないことがありました(もちろん一般的な会話の中でです)。実際に、私のウェブについての知識が中途半端ということもあり、これはかなり難しい問題で、話をするのに非常に骨を折りました。その事が気になって、胸に小骨がひっかかったようなままだったので、今日は何ともなしに下記の新書をポツリポツリ読んでいました。とりわけ「そうだよな〜」と思った箇所を抜粋しておきます。

 文章を書くとき、細かい情報がわからなくて図書館を探し回るのはよくあるのですが、グーグルのおかげで随分手間が省けるようになりました。文章を推敲し仕上げていく段階で、検索サイトは実に有用なのです。

 けれども、逆に言うと、検索サイトの情報から基本的な文章のアイデアを得られたことはない、というのも事実です。基本的アイデアは、書籍や雑誌に加え、さまざまな人々との交流から得られることが圧倒的に多い。映画やテレビ番組からの場合も少なくありません。つまり、検索サイトからの情報は、文章の構想ができあがった段階で完成度をあげるためには役立つのですが、思考のフレームワークを作るにはあまり向いていない。比較的短い、断片的な知識が脈絡もなく並んでいるからです。基本的なアイデアというものは、一冊の本を読み通すような、ある量のまとまった情報にふれることで次第に熟成され、やがて自分の内奥からわき出してくるものなのです。

(西垣通『ウェブ社会をどう生きるか』岩波新書、2007年、p6-7.)

 この後に、西垣さんは、学生のレポートを読んでいて、こじんまりと綺麗にまとまったものを多数見るのだが、考え抜いて深く突っ込んだ内容のレポートには、なかなか出会わないと書いています。そのような内容に関わる部分は客観的な尺度でなかなか測ることのできないことでもあります。しかし論旨がどのような筋道を通っているのか、またその論旨がどの程度の深度で考え抜かれているのか、というのは、(この場合では)読み手の成熟度によって見抜くことができると西垣さんは考えます。書くことも読むことも大変難しいことで、その(あたりまえの)事実に気付くための道具、そして基本的な人間としての能力を最大限に活用する可能性を含むもののひとつが、現在のウェヴであると、ひとまずは言えるのでしょうか(この見解はポジティブなというか希望的ウェブ観ですが)。でも、この新書を読んだだけでは、もちろん「ウェブ社会をどう生きるか」という問いには答えはでないことになっています。あしからず。

ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書)

ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書)