on line 上で下記のような議論が行われました。私の部分のみupしておきます。

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この8月9日、日本臓器移植ネットワークは、関東地方の病院で交通事故のため脳死状態になった20代の男性について、本人の文書による臓器提供の意思がないものの生前の口頭による意思表明があったとし、家族が脳死判定と臓器提供を承諾し、法的に脳死と判定された、と発表しました。7月の改正臓器移植法に基づく初のケースでした。19日には本人の意思がまったく確認されていない人の臓器提供の初例があり、続いて22日、28日と脳死判定が下され、8月だけで家族了承の脳死判定による臓器移植は4例、生前意思のある1例を足して、脳死判定による臓器移植のこの8月の月間総数は、過去最高の5例に達しました。

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臓器移植法案が改訂されたため、上記のようなケースは増加していくことだろうと思います。「脳死をもって死と判定されては困る。死の宣告を心臓死まで待って欲しい」等の拒否権を含め、脳死を宣告された時に家族や近親者が激しくそれに反発するのは、実際の所、特別な信念を持っていないかぎり、難しいことではないかと思います。法制化が進んでいく以上、私たちが個人的に出来ることは、自らの見解をある程度、明確にしておくことに絞られてくるのではないでしょうか。脳死・臓器移植問題は、レシピエント(受給者)とドナー(提供者)の関係上、どうしても1セットで語られることが多いのですが、見解としては「脳死を死と認めるのか、否か」という問いと「臓器移植に賛成なのか、反対なのか」という問いはまったく別のもので、この両者を一旦分けた上で双方の見解を持っていることが重要なのだと思います。

特に臓器移植に関しては、私自身は人間の身体を「所有」という観点から論ずることには、無理があるのではないかと考えてきました。これは発展させていけば、(例えば)英米法と大陸法との議論の差異というところまで議論が展開されていくところですが、ここではそこまで書く必要はないところかなと思います。医学と医療技術の進展によって、もしくはその客観的な視覚が切り開いた地平は広漠で、それによって私たちは確かに健康で安全な生活を向上させてきたことは確かです。しかし(たとえば移植医療で問題になる免疫の拒否反応などひとつを取っても)人間の身体と精神、それ自体は部品を簡単に交換できるような機械のような存在ではないことは明らかで、そのようなものとして取り扱われれば、モノとなりはて、逆に、唯一無比の存在として認識されれば、そのような存在として存在するようになるのだと思います。また臓器移植が、それこそ「手軽な」問題として認識されればされるほど、種々の格差を利用した「人体資源の流通」という問題は重い課題として、たとえば形を変えたとしても巧妙で同様な構造をもって私たちに圧し掛かってくるように思われます。
脳死」の問題に関わることですが、人間の死についての「国民的な統一的見解をとる」というのは、私自身としてはそれは無理なことではないかなと考えています。というか、素朴には、無理に統一的見解を取らない方が自然なのではないかと思うからです。またどこまでが国民的な統一見解であり、それが必要とされているのはなぜかという問題も大きなものだと思うからです。科学的な「脳死判定」の基準は、かなり厳密なものであるし、法という拘束力もあいまって、それに例えば「個人が」あがらうことは、現段階のわが国では難しい。「脳死」の問い、それ自体もそうですが、自然的なもの(概念)だからよく、また人工的なもの(概念)だから悪く、という見解には、ある種の危うさがあるのではないだろうか、言い換えれば、私の疑問とは、むしろ、そのように見せているものは何なのだろうかという所に関心があるのかなと思いました。実際には、理念的な見解と現実との均衡する地点で、人は自分を支えていくものではないかなと思います。
長々と、感想文となってしまいましたが…。

・『脳死と臓器移植』蒼穹社、1991年.
・www.bioethics.gov