読む から 浴びる 

 先日、某氏と話しをしていて、ふと思い当たった。思考の切れ端でしかないため、体系的に論じることができないとしても、鋭い指摘だと思ったので、メモを残しておくことにする。

 PCがこれだけ普及し、読むという媒体が、本からデジタルデーターへと移行していくにつれ、文章や文体の厚みや重みが減少していっているように感じられる、と某氏は言っていた。

 書く作業が、手書きではなく、キーボードへ移行したこと。またそこからくる、文字や文章の選定などの問題と無関係ではないように思える。さらに文章の質量の変化というものがあるとするならば、タイプライター、ワープロ、パソコンと変遷していった過程で、少しづつ変化が生じてきたのかもしれない。

 そうだとすると、読む媒体が紙から「持ち歩きできるディスプレイ」のようなものになっていったとしたら、読むという認識自体が変化していく可能性もあるのだろうか。「読む」というより「浴びる」という状態に近いと言えるから、使用される脳の部位にも変化が出てきそうである。

 それでも例えば、ヘーゲルの『歴史哲学講義』みたいなものをディスプレイで読むと、それだけで目が悪くなるだろう。社会変化としてテクストを「浴びる」ような状況になったとしても、大切だと思われるものは適切に選定がかけられ保存されていくから、そうするとアーカイブという考え方それ自体に相当な変化も生じてくるだろう。