sein をいかに論じることができるだろうか。

ここの所よいね。メモ。

 カントは科学に――現象界についての真理という――二流の真理の領域を委ねることを欲していた。ヘーゲルは、自然科学が自らの精神的本性をまだ十全には意識していない精神についての記述の一つであると考えそれによって詩人や政治革命家が提供する類の真理を、一流の地位にまで引き上げることを欲したのであった。

 しかしながらドイツ観念論は短命で不十分な妥協だった。なぜなら、真理が「そこに」在るという考えを拒否するうえで、カントとヘーゲルはまったく中途半端だったからである。経験科学の世界を創造された世界としてみること、つまり、事物は心によって構成されている、あるいは自らの心的特性を不十分にしか意識していない心に存ずるとみなすことを、彼らはいとわなかった。しかしながら彼らは、心、精神、人間の自己の深みは本有的特性を――つまり哲学と呼ばれる、一種の非経験的な超科学によって知ることが可能な本性を――もっている、とみなすことに固執していた。

(中略)

世界がそこに在るという主張と、真理がそこに在るという主張とは区別される必要がある。

・世界がそこに在る、つまり世界は私たちの創造物ではないと述べることは、常識的にいって、時空間内にある事物のほとんどが、人間の心の状態を含まない諸原因の結果だと述べることである。

・真理がそこに在るのではないと述べることは、文のないところに真理はないということ、文は人間の言語の要素であるということ、そして人間の言語は人間が創造したものであるということを、述べるにすぎない。


(RR,CIS,15-16)


彼の見解は結構わかりやすい構造を持っていますね。ここでの議論点は、世界があるということと文が生じているということは、議論上区別する必要があるかもしれないけれど、世界内存在によらないと文が成立せず、文が生じないところには世界の客観的な対象が浮上しないというと点だろう。