Aug,21 雛罌粟(ひなげし)――3.贈り物――

空港のボーディングゲートをくぐると、美智子は、もう久しく味わったことのない開放感にとらわれた。

「まあ、本当にしばしの休息という所だけどね・・・」

離陸してから青い空の中にあっという間に吸い込まれていく飛行機を眺めながら、美智子はポツリとつぶやいた。考えて見れば、真紀の婚約の知らせが届いてから、美智子は何となく気忙しい毎日を送っていた。ごく淡々と毎年恒例の行事を切り抜け、仕事仲間のスケジュール調整をしながら、真紀の結婚式に合わせる為に、夏休みを例年よりも遅めに取り、毎月の貯金を少しだけ増やした。
真紀からは、1−2週間に1度ほど連絡があった。若い二人は活気溢れる都市で自分たちの生活を少しずつ整えていったが、セレモニー自体は、お互いの家族を尊重し、サンフランシスコ郊外にあるビリーの家でのガーデンパーティーという伝統的な形式を採った。その様子をメールで読みながら、美智子はまるで古いアメリカ映画のワンシーンを見ているようだ、と思っていた。
通常、美智子は週末、家で本を読んだり、散策を兼ね美術館へ出掛けたりするのだが、或る週末、真紀のメールを読んだ美智子は、思いついたかのように、久しぶりにウエディング・プランナーとして働いている友人と待ち合わせて夕食を共にした。そこで二人は、現代日本社会の結婚状況について、喧々諤々と語り合う。もう何度も友人の結婚式に出席している、そう若くない女性二人組みは、偶然にも隣に座ったカップルに冷や水を浴びせかけるかのように、時折、声のトーンを上げて大切なところを強調したりするのだった。そんな楽しい週末の後に、リゾート構想に組み込まれている可愛らしいホテルで、都会のカップルを強く惹きつけるようなウェディング・プランが発表されるのだった。
光陰矢の如く。そんな事をしていると3ヶ月はあっと言う間に流れていった。渡米の3日ほど前から美智子は処理し切れない仕事の山の前で何度も挫けそうになったが、休暇前日、夜の10時を回ったところで、これ以上手を広げると逆に状況は悪くなるだろうと判断した。早急に送付する必要がある宅急便を分類籠に放り込んでから帰宅すると明日出発にも関わらず、美智子はそのまま倒れこんで眠ってしまった。
「歯ブラシと電気の変圧器を忘れてきてしまった」と、今、美智子は飛行機の搭乗口へと歩きながら考えていた。でもそんな彼女が忘れなかったものがある。真紀への贈り物だ。色々と考えて、結局、美智子は井上達夫の『自由論』と森岡正博の『33個めの石』という本を贈ることにした。新婚の二人への贈り物としては気の利かない選択だが、結婚を機にアメリカ人になる真紀にとって、米国の思想をコンパクトに知るに適した本だと美智子は考えたからだ。
(つづく)

――この物語はフィクションであり実在の人物・場所とはまったく関係がありません――